ジュエリー今昔物語
明治20年から30年にかけて、水晶の採掘は「最盛期」といわれ、盛況をきわめました。
一方で産出量は、明治22年をピークに減少。
「最盛期」といわれるのは、業者間に猛烈な採掘競争が起こり、いたるところで採掘されたためでした。
この時期に金峰山麓の御岳をはじめ、増富などの産地は掘り尽くされてしまったと考えられています。
その頃から、古くからこの地を悩ませていた「水害」がより目立つようになります。
水害の回数は明治元年から明治44年までの間に、記録に残されているだけで18回。
河川が氾濫し、人々の暮らしに被害を与えていました。
これらの水害は、水晶採掘のために行われた盗伐・乱伐、そしてその採掘跡をそのまま放置してきたことが原因ともいわれていました。
対策に困っていると、明治30年に「砂防法」「森林法」が相次いで公布され、これによって鉱物採掘や森林の盗伐、開墾などが制限されるようになりました
また、水害が起こりそうな場所には、水晶採掘の際に掘り出した岩石と土砂が落下しないように砂防施設を設けること、そして、採掘終了後はもとに戻す措置を取ることが条件とされるようになりました。