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ジュエリー今昔物語

甲州が水晶の産地として有名になる

それから、特産水晶細工を「甲州水晶」として日本全国へ売り広めたのは、明治30年頃から始まった水晶行商人と通信販売。
この頃、全国に向けたカタログによる通信販売が本格的に始まりました。

水晶の通信販売のはじまりは、明治34年に水晶とぶどうの甲州特産品の販売を目的とした「甲斐物産商会」が発行した『甲斐物産商報』とよばれるカタログです。

『甲斐物産商報』には、宝飾のみではなく、「ぶどう酒」や「西島和紙」など、地域の工芸品も載っており、共同で宣伝するものでした。

通信販売が始まり、甲州水晶の名が広がる

当時はちょうど甲府̶東京間の国鉄中央線が開通したタイミング。
賢い業者たちが、そのことを見越して間髪入れずに宣伝に乗り出したので、 カタログの効果は少なくありませんでした。

『甲斐物産商報』は、日露戦争まで続きました。


同時に、通信販売以上に「甲州水晶」の名を売ったのは、旧六郷町を中心とした峡南地域の人たちによる行商でもありました。
彼らこそ全国的に水晶の販路を開拓した功労者ともいえるでしょう。

水運業が国鉄の発達で仕事を失い、行商人になった

彼らの活動が活発化した背景にも国鉄の開通がありました。

もともと富士川の水運で生計を立てていた彼らは、鉄道ができたことで仕事が少なくなると水晶の行商となり、全国いたる所に繰り出して「甲州水晶」の名を広げたのでした。

この隆盛期の乱掘により、大正初期には原石はさらに少なくなってしまいました。