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History/山梨宝飾の歴史

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  • 1 山梨水晶の始まり

    •  徳川時代までは、水晶の発掘は許されなかったので、世の中へ出た水晶の量は極めて少なく、それだけに人々に珍重されてきた。
       明治政府になって、鉱山法が公布されるに及んで、明治10年頃から激しい発掘が行われるようになった。当時は国内各地から水晶は掘り出されたが少量のもので、水晶最大の主産地は山梨の金峰山麓をとりまく鉱山群であった。明治以前の水晶は、自然に地表に露出したり、山崩れ等によって採取されたものが殆どであったが、その僅かな水晶をいろいろに加工してきた。
       最初の加工品は縄文期の石鏃(やじり)であった。平安時代に入ると水精(水晶)の念珠で陰陽を占ったという記録が「朝野群載」に記されている。鎌倉時代になると、念珠の外、仏像の白豪や眼玉に用いられるようになり、神社に於いては、大玉を御神体として祭るようになってきた。
    •  年を経て享保年間(1716~35)に金峰山の水晶を京都の玉造りに加工させたと伝えられる「火の玉」「水の玉」等5個の銘玉が甲府市御岳町の金桜神社の社宝として、今も大切に祭られている。
       太古の昔から、水晶の産地として知られていた山梨。この地に本格的な水晶工芸が興ったのは江戸時代後期のことである。
       今から150年ほど前の江戸後期になると、甲州の水晶原石が京都に運ばれ、京都の研磨職人の手によって磨かれ、堂上公卿の人々に愛寵されるようになった。その頃京都の玉商の店「玉屋」の番頭弥助が京都から甲州へ原石仕入れに来た折りに、金桜神社の神官社家の人達に水晶の研磨法を教え、それから「山梨の水晶産地」が芽生えた。京都の玉屋弥助は甲州水晶の第一の恩人である。
  • 2 初期の水晶製品

    •  最初は大玉づくりから始まった。金峰山麓から時々見つかった原石で2寸玉、3寸玉という大玉を作った。その作り方は、原石を金槌で角をたたき落とし、「コブカキ」で高い角をかきとり、「ハリ」で細い角を更に削り落として荒玉を作る。さて、桶の中に「トイ」を固定し、水と金剛砂(奈良地方で産出)を交ぜたトイの溝の中で、荒玉を前後に転がして摺り、そして磨いていった。
       江戸末期嘉永7年(1854)の「甲府買物独案内」には、次のような商品広告が載っている。「玉根附緒メ、御数珠、眼鏡」
       明治初年ごろの甲府の水晶細工所の「萬注文帳」には、更に商品内容が豊かに記されている。「まんぢう根付、めがね、守玉、印籠、印材、置物兎、富士型置物」
    •  江戸末期までの神仏混合の金桜神社、神宮寺の神宮社家の人々は金峰山信仰の拠点として繁栄を極めていたが、明治維新の廃仏毀釈の波に襲われて、衰退の一途をたどっていき、日々の生活にすら困窮するようになってしまった。暮らしをたてる為に、下級神官社家の人々は習い覚えの水晶研磨を本業とするようになり、鉱山採掘許可による原石多量化と共に、水晶研磨は盛んになり、商いの便利な甲府に工場を建て、御岳から甲府へと水晶興業産地は移り、水晶原石を掘り出す人々、研磨する人々、そして商売を広げる人々と、山梨の水晶産地は形成されていった。
       大正5年の「郷土資料」によると盛況の往時がしのばれる。-水晶品製造業183戸、職工708人、製品…印材、飾り玉、カフスボタン、カンザシ、中指し、根かけ玉、眼鏡レンズ、帯止め、文鎮、中巻指輪、数珠等。
  • 3-1 業界初の組合誕生

    •  明治政府の勧奨もあって、甲州水晶の発掘は明治10年頃から盛んに行われるとともに、水晶業者は増えていき、隆盛を極めることになる。
       このような状況の中で、山梨宝飾業界初の組合が結成される。それは明治30年のことだ。土屋宗幸氏の主唱によって、甲府の水晶業者が結成した任意団体「甲府水晶組合」である。
       しかし、この組合の存在を明らかにする資料は残っていない。
       法的に明らかな組合は「甲斐水晶同業組合」である。同組合は「重要物産組合法」に基づいて、明治37年水晶業者輿石勲氏、石原宗平氏ら13名が集まって設立したものだ。同組合は、実際の活動を行う前の事業計画作成段階で、慎重論と急進論が対立した。2年余にわたり紛争を続け、ついに調整がつかないまま明治40年解散に至る。結局、実質的な活動をせず、むしろ、業界の内紛を呼ぶ結果に終わった。
    •  その後、いくたびか組合再結成の話が持ち上がったが、先の紛争にこりて具体的な組合組織までは発展しなかった。
       が、大正2年産業組合法による設立が県から奨励されて、業者25名によって「有限責任甲府水晶信用販売組合」が結成し、県から認可された。組合員に対して産業資金の貸し付けや生産品の販売などの事業を行うことになったが、出資金の少ないことから何の成果も上げることができないまま解散に至った。
       水晶原石の生産状況は、乱掘状態になってしまい、豊富な地下資源も、激減し、大正初期には極度の原石難に陥ってしまった。
       この頃東京で砂糖輸入商を営んでいた三栄貿易商会の社員、三浦雅登氏が「甲州では水晶の原石難に苦しんでいる」という話を聞いて直ちにブラジルから水晶輸入の手を打った。甲府の業者との最初の取引は大正7年9月、500ポンド5円50銭、総額2,750円という契約で、実際は翌8年に最初のブラジル水晶が甲府へ入ってきたのである。
  • 3-2 業界初の組合誕生

    •  これは在来の国産品より質も良く、値も安かったので業界にとっては、まさに旱天の慈雨であった。
       これ以降、大正8年から9年にかけて、ブラジル水晶を輸入する商社が増えた。また、篠原正廣氏は、甲府業者として初めて自らの手で直接ブラジル原石を輸入する。これをみた石原、輿石、柳沢、七沢氏らは、大正10年「甲府原石協会」を設立し、ブラジルからの直輸入を計画した。
       ブラジルの無尽蔵ともいえる原石輸入が実現して原石難が解消し、業界発展の基礎が固まったので、再び組合設立を要望する声が高まり、この時期次々と業種別に組合が設立された。
       「甲府水晶篆刻同業組合」「甲府水晶印伝袋物商組合」などが結成されたが、いずれも任意組織の組合であるため、局部的な参加者にとどまり、事業活動などにも積極さを欠き、小範囲の活動をしただけでみるべき成果をあげることなく消え去っていった。
    •  また、これと前後して20数軒の飾り業者により「甲府金工組合」が設立された。
  • 4-1 商いの歴史

    •  水晶商いの草分けは、深輪屋(後の玉泉堂)で、文政4年(1822)に天然水晶を売ったと記録されている。
       明治中期に「板割法」の開発によって水晶製品の量産化は進んだが、やはり手作りの為に、量産化といっても限界があった。ところが、明治末期になって、「足踏み式コマ磨き法」という機械が開発されて、製品の多様化、多量化が促進され、商工業ともども大躍進が始まった。丁度この頃めのうの新しい加工法も開発された。大体、原石の生めのうという石は硬度8度で硬くて加工に手間どり、発色も鮮やかな赤など極めて少なかった。その生めのうを加熱(難しい技術)すると硬度が1度低くなって加工し易くなり、更に美しい赤色が鮮やかに発色してくるという有難い処理技術の開発であった。
       明治33年甲府の町に電灯が灯った。業者は電気仕掛けの機械を作る為に様々な創意工夫をこらした。「めがね玉平面研磨機」「水晶琢磨器」等々。実用電力機械化のための開発努力によって、今日の高性能の機械化へと発展していった。
    •  大正初期に入ると、外国から首飾りの注文が舞い込んできたが、当時の業者は首飾りなる品物を知らず受注したくてもカット石の均等量産が不可能で歯ぎしりするばかりであった。しかし、海外の事情が段々解るにつれて、ネックレス生産の決め手である「連摺法」を遂に開発した。この開発によって、水晶カットの多品種化、均一量産化が可能となり、高級水晶首飾りが市場に出廻るようになった。この「フジヤマ、クリスタルネックレス」は、特に米国婦人層に好評を博するようになり、輸出品の王座を占めるまでに発展していった。
       甲府の飾り業は江戸末期には、「甲府かんざし」として名高い銀の平打ちかんざしを中心に髪飾り用具とキセルなどを数軒の飾り屋が作っていたと伝承されている。しかし、明治に入り日本髪は洋髪に移り、甲府の飾り屋は衰微していき、細々とキセルや小金具を作るだけとなった。
  • 4-2 商いの歴史

    •  この衰退一方の飾りが水晶細工と結びついたのは、明治26、7年頃といわれている。甲府の市川松次郎氏が、水晶をくり抜いて作った指輪の内側へ金の輪を入れることを考案し成功したのが始まりとされている。この水晶の金入り指輪は、新奇を好む婦人達に喜ばれ、ひとつの流行となったといわれている。さらに、古くから魔除けのお守りとして珍重されてきた水晶玉に飾りをつける加工も起こり、甲府の飾りは固く水晶細工と結びつくことになる。しかし、順調に発展を続けた水晶飾りも、前述のように明治末期からの水晶原石不足を反映して、不振の時代に入ることになる。
       ところが、大正3年7月に勃発した第1次世界大戦により、日本経済は戦争景気に湧き、この大戦中にかってない発展を遂げる。この好況の波に乗り、水晶原石の逼迫で極度の不振に陥っていた飾り業界にも明るい光が差し込んでくる。それは、大正5、6年頃から水晶製品に加工する水晶飾りにかわって、金を使用した金指輪を初めとする金の飾り製品を作り始めたことだ。
    •  この金の飾り製品の生産により、甲府の飾り業は大きな前進を遂げ、文字どおり貴金属を材料とする高級装身具の生産、いわゆる貴金属工芸へと移行する下地が作られたのである。
       こうした流れとともに、従来甲府飾りの欠点と指摘されてきた意匠・図案の遅れ、また創意性に乏しいことなどを改善するため業者は前述の甲府金工組合設立に至った。この組合は昭和10年まで活動を続ける。
       印章に於いては、明治維新によって、一般庶民までもが印鑑を用いるようになって、印章業は繁盛するようになった。が、硬い水晶やめのうを手早く彫ることは不可能で需要に追いつけなかった。昭和6年「噴砂式彫刻法」による機械化が業者の手によって完成し、飛躍的な生産が可能となり、「印章王国山梨」の基を築くことになった。
  • 5 産地形成

    •  どんな好条件があっても、最後の決め手は人である。山梨の地には苦労をいとわぬ働き者が多かった。
       明治時代の水晶業者の殆どが、印材を商品として扱っていた。この水晶印材を全国津々浦々、島という島まで販売して歩いた人々がいた。富士川に添う峡南の行商人である。富士川両岸の村々は急峻な地形で耕地が狭く半農半商の生活を余儀なくされていた。そうした悪条件を克服して、現在のような「印章の山梨」を築き、六郷町を中心とする「峡南印章産地」が形成されていった。
       甲府の水晶職人の製品を峡南の印材行商人が売りさばくという流通形態の中から、更に新天地を拓く商人達が輩出した。
       印材に加えて、水晶の眼鏡や装身具類をトランクにつめて、朝鮮、満州、中国大陸へと出張販売を拡げていった商人達がいた。昭和初頭の頃である。努力のかい合って、1回の出張販売額が当時の金で1万円という勢いであった。
    •  昭和16年太平洋戦争突入で商人によっては満州の在庫商品1千万円が没収され、文無しになるという状況だった。
       太平洋戦争までは、水晶彫刻、ネックレスのアメリカヘの輸出、中国大陸への出張販売、日本国内隅々に至る行商販売、さらには甲府を本拠に全国富裕階層への「通信販売」(水晶製品のみでなく、甲斐の物産として、甲斐絹、洋傘、真綿、印伝、唐糸織等)という新商法によって、「水晶の山梨」という全国唯一の産地形成を遂げていった。
       この実績に立って、現在の「宝石の街甲府」「貴金属の山梨」なる産地が築かれたわけである。
  • 6 甲府水晶業組合の設立

    •  先の任意組織の2大組合、「甲府水晶篆刻同業組合」「甲府水晶印伝袋物商組合」が雲散霧消した後、水晶業界は大変な問題に直面することになる。それは、輸入水晶に対する関税が、大正12年までは2割課税だったのを、大正13年1月を期して税率を一挙に10割に引き上げたのだ。
       これは、業者にとっては死活問題につながることである。業界は一丸となって猛烈に反対し、大正13年3月、同業組合規則によって水晶加工、販売両業者67名が参加して「甲府水晶業組合」が設立された。まず乗り出した活動は、問題の関税引き下げ運動だ。当時の大蔵大臣浜口雄幸、商工大臣高橋是清両氏らに、直接合って陳情を行うなど陳情戦を展開して同年7月には、5割課税に引き下げを勝ち取ることができた。
    •  その他同組合の行った事業は、製品の宣伝と販路の拡張であり、首飾りなどの新製品の生産と輸出増進への努力である。特に輸出増進にはヨーロッパ市場の開拓が挙げられる。
       同組合が結成された翌大正14年9月には、輸出好況時の波に乗って増加した、水晶首飾り製造業者15人によって「甲府水晶首飾製造組合」が設立され、また「山梨県水晶輸出工業組合」も結成された。
       同じく同年輿石有、石原宗美、土屋徳造、一瀬熊次郎、望月広行氏ら5業者が集まってつくった「五友会」は、これまで県や市にまかせてきた県外進出に乗り出した。まず横浜のデパート野沢屋で、『山梨県物産宣伝即売会』を開き多大な成果を上げた。その後も引き続き東京の各デパートで水晶細工を中心に特産品を定期的に出品し、宣伝、販売に寄与した。
  • 7 水晶工業組合設立

    •  昭和初頭日本の経済界は、2年に金融恐慌が起こり、銀行の倒産も起こり、暗雲が立ちこめた時代である。
       しかし、水晶業界は、その経済界の不安動揺をよそに、首飾りを中心に昭和3年以降生産額が激増し、4年から6年にかけては年産額200万円を突破し、頂点を極めることになる。
       この首飾りの好況も永続きすることはなかった。昭和7年頃から世界的に不況が進み、流行の変遷などから、輸出首飾りの単価の下落が目立ってきた。
       こうした下落一方の状況のなか、業者は輸出統制の必要を痛感し、県や市の指導協力によって統制機関として工業組合の設立を企画した。
    •  昭和5年9月「重要輸出品工業組合法」により、水晶工芸品を重要輸出品として商工大臣より指定を受け、角田唯治氏らが中心となって6年5月「山梨水晶工業組合」が設立された。地区は山梨一円、組合員は81名、本県最初の工業組合である。
       山梨水晶工業組合は、下落をたどる輸出品首飾りを安定させるため規格検査を実施したが、検査を受けたものは生産数量の2割3分程度に終わった。したがって組合員以外の業者で検査を受けようとする者はなく、その後もこの状態は改善されることなく過ぎた。さらに昭和7年同組合総会で決議された生産品2割値上げも、世界的経済恐慌が響き、思うように実行されず、粗製乱造と投げ売りが止まなかった。8年には生産5割制限を実施したが、160業者のうち6割が休業をやむなくする不況のどん底に落ちた。
  • 8-1 商業組合設立

    •  昭和6年の工業組合法の改正に続いて、7年には「商業組合法」が施行された。当時山梨県の商業者は、深刻な不況と産業組合の進出に悩まされ不振であったため、甲府商工会議所が中心となり、商権擁護と商業の合理化をスローガンに掲げ商業組合の設置を指導推進した。その結果、9年8月になって甲府一円の水晶、印伝、硯など特産品の販売業者22名により、商業組合法に基づく「甲府物産商業組合」が誕生した。
       その年の11月、甲府市長の呼びかけで、甲府物産商業組合の業者と峡南地区の水晶販売業者、製造業者の70余名が集まり、業界の更正策を協議した。そして、峡南、岳麓、御岳の販売業者を地域的にまとめた商業組合を作り、これを連合会組織にもっていくことを決定した。しかし、標準価格を制定することで、峡南地区の業者は、通信販売、行商を主としているため、営業範囲、取引先、価格など同一に拘束することは不満であり、不可能に近いと対立して連合会設立の予定もご破算となった。
    •  また、このように法に基づく、山梨水晶工業組合と甲府物産商業組合が結成されたのを機会に、甲府商工会議所では両組合が密接に連携して、水晶工芸について商工関係を円滑に進めて発展させるように呼びかけた。
       討議の結果、昭和10年2月から両組合が協力し、毎月5の日3回を「水晶市日」ときめ、会議所会議室を市場として水晶製品の取引を行った。特に商業組合員には融資を斡旋し水晶、めのう製品の現金購入を奨励したので、比較的安く製品を仕入れることができた。一方製造業者も掛け売りがなくなり、安全に取引ができるようになったのでこれを歓迎した。この水晶市日の設定は業界の健全な発展に貢献したが、永続きせず、時代の悪化とともに自然になくなった。
       貴金属工芸の飾り業はどうだったろうか。
  • 8-2 商業組合設立

    •  水晶業界が不況の波に押しまくられていた頃、もちろん飾り業界も例外でなく、等しく不況の影響を受けた。が、幸いなことにその打撃は比較的少なかった。輸出向け首飾り用金具など若干の減産はあったものの、内需用の指輪、くさり、帯留めやこの時期つくり始められたブローチなどの生産は好調を維持した。また、売れ行きも、朝鮮満州方面に新しい販路を開拓する業者も現れて思いのはか順調な伸びを示した。水晶業界とは全く対照的な状況で業者数も次第に増加し、昭和10年頃には50軒に達した。
       このように不況にもめげずに拡充発展を続けてきた実状からみて、任意の同業組合である甲府金工組合の組織では、とても業界の改善向上は望むことはできなかった。このため同組合を工業組合法による工業組合に改組をするため昭和10年秋、解散することになる。
    •  
  • 9 戦争と振動子

    •  昭和12年日華事変が始まって山梨の水晶は大打撃を蒙った。15年のいわゆる「奢侈品禁止令」で水晶めのう製品ははずされはしたが、様々な制約を受けることになってしまった。止むを得ず、以前から若干は手がけていた、工業部品の生産に全力投球をせねばならなくなった。即ち水晶発振子、レンズ、絶縁体等の軍需研磨品の生産体制に組込まれていった。甲府市立工業研究所水晶部の指導によって、昭和16年2月、山梨県地方統制工業組合(後に山梨県海軍統制工業組合)を発足させ、軍需生産に励んだ。明電舎甲府工場は陸軍軍需工場となり、その下請け協力工場としても業者は働くことになった。太平洋戦争に突入翌年の昭和17年「企業整備令」によって、商業関係の従業員は、すべて動員され、軍需工場で働くか召集されて兵士となるかで、商業界は壊滅状態となってしまった。
    •  戦況は日々に厳しく、軍需物資の振動子、発振子、ST板、絶縁体等の生産に総力を捧げていたが、昭和20年7月の甲府大空襲で全市消失、工場倉庫も跡形もなくなって、8月15日敗戦を迎えた。
       敗戦から2ヶ月後の10月には、復興平和工場として操業を開始した。40工場、250人の従業員が民需向の振動子の生産に立ち上がった。
  • 10 敗戦直後の業界

    •  装身具業界も急速に立ち上がった。
       町や、工場倉庫は焼けてしまったけれども、水晶原石は焼け跡から続々と掘り出された。
       昭和21年には、60工場、2年には80工場が復興し、従業員も600名を越え、首飾、イヤリング、ペンダント、指輪の芯石の生産に励んだ。それらの商品は、主として進駐軍向装身具であり、次いで一般国内向けであり、僅かではあったが輸出も始めた。
       GHQの管理下に置かれた輸出業は、為替レートの変動と国内のインフレ経済の波をかぶって、さんざんな苦労をした。為替レート-1ドル対250円、315円、400円、525円、そして360円-。こうした中で、水晶ビーズ、彫刻品、めのう類のカボション等の輸出に努力し、昭和26年には、工場250、従業員1,500人という状態にまで復興していった。
    •   
  • 11 戦後の組合編成

    •  このような状況に水晶宝飾業界は、業界の復興と水晶の世界市場への復帰を目指して、238名が集まり、昭和21年4月自主的任意組合「山梨県水晶業組合」を結成した。
       同組合には規約により機械、商業の2部会が置かれ、さらに本部の機構を庶務部、研究部、経理部、厚生部、検査部の5部として活動を開始した。
       組合が最初に行った活動は、放出物資の確保と分配である。また、終戦の混乱に乗じて一部に暴利をむさぼる業者が現れたので、日用品価格検定委員会の身辺細貨部を構成していた組合では適正価格の決定や貼付証紙の作成配布を行って、悪徳業者の一掃に努めた。
       次に、水晶研磨工業の再建には輸出の促進が必要不可欠であると、貿易再会を期待する声が高まってきた。同組合では、貿易部を設置して貿易再会に備え、価格の統制、品質の査定、製品の研究を行うことにした。
    •  しかし、運営に食い違いがあり、予定通りには行かなかった。
       飾り業者は、水晶業組合に参加したものは少なく、保坂常造氏を中心とした48名が集まり協議した。その決議として、水晶業組合とは別の任意組織の「山梨県金属工芸協会」を設立した。そして、進駐軍ブームに即応する増産体制も整備することになる。
       この目的を達成するため事業として各種工具の共同仕入れや最も必要な銀・真ちゅうなどの地金確保にも努めた。しかし、銀は当時すべて進駐軍の管理下におかれたので確保は思うにまかせず、入手できたのは戦時中軍部が保管していた放出物資と当局の追求で摘発された隠匿資材などであった。これに各業者が手持ちの地金を加えて、進駐軍向けの指輪とブレスレットを作り出したのが、戦後の仕事始めといえる。
  • 11-2 戦後の組合編成

    •  終戦後の貿易は、すべて総司令部の管理下で行われてきた。しかし、昭和22年8月総司令部は、制限付きながら民間貿易の再会を認めた。また、同年7月には山梨県内の戦前に輸出の実績をもつ水晶製品、生糸、綿織物などの業者80名によって「山梨県貿易協会」を結成し活動を展開したが、管理貿易のため思うような成果は上がらなかった。
       同じ昭和22年に水晶業組合は、「研磨工業研究所」を設立した。この研究所は、米沢組合長以下の組合幹部が、県や山梨大学などの関係者と協議検討して企画したものだ。県と山梨大学工学部及び山梨県水晶業組合の三者が協力して運営にあたり、水晶業界の発展と合わせて県下一般輸出産業の振興に寄与することを目的とした。将来的には、県営さらに国立機関までに飛躍させようと計画していた。
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  • 12 水晶商工業共同組合の設立

    •  「商工協同組合法」が制定公布されると、水晶業組合では、同法に基づき組合の改組を望む声が上がり、22年8月の臨時総会で改組を決議した。しかし、一方では商工業分離を唱える者も多かったので、商、工両部会において検討した結果、まだ時期尚早だという結論を出し、商工分離せず一本化で改組することになった。
       これに基づいて、昭和23年9月「山梨県水晶商工業協同組合」を設立、法的組合としてその一歩を踏み出した。構成組合員は216名、理事長は米沢良知氏で組合の部会構成は、水晶業組合を踏襲した。
       昭和24年6月には、商工協同組合法にかわり「中小企業等協同組合法」が公布されたので、同9月改組した。
    •  この頃組合内部に、品種別にグループを結成しようという動きが現れた。まず、首飾り業者65名が集まり「水晶首飾り協会」を設立し、月例的に集会を開いて共同目的に進むことになる。ついで、翌年1月、「平切子関係業者46名が「水晶平切子協会」を結成した。
       これらグループの活動が盛んになるとともにグループに対する組合の指導援助に反対する意見が増え、再び商工の分離、工業内部における品種別グループの再検討を促す機運があった。が、役員会で討議、商工の分離及び品種別分離まではいかず、商工相互の立場を尊重しながら組合活動が続けられた。

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